私が望む社会保障の姿と負担のあり方

「高福祉応分の負担」を考える


今回は、東北福祉大学総合福祉学部教授、高橋誠一氏


高橋誠一(たかはしせいいち)氏: PROFILE

北海道大学大学院経済学研究科博士課程退学。札幌大学経済学部助教授を経て2001年から現職。「福島県特別養護老人ホームユニットケア推進検討会議」委員長。「宮城県高齢者元気プラン(高齢者保健福祉計画)」委員長。「小規模多機能ケア研究会」代表など。


いやな負担でなく、「高福祉応分の貢献」が真意に近いのではないか


私が望む社会は、不安なく自分らしさを発揮できる社会である。そのために、社会保障がある。そもそも私たちの生活保障は、私的所得や蓄えと社会保障から成り立っている。個人の努力を超える安心には、社会で支え合う仕組みが必要なのである。しかし、現在の社会保障は少子化や高齢化が想定されていない時代に、経済成長優先の中で作られた。そのため、「高福祉高負担」という言葉には、高福祉を実現することは、経済成長を犠牲にすることだという意味合いが込められていたように思う。日本の場合は、さらに、政治に対する不信が重なって、高福祉が望ましくない印象を与えてきたが、高福祉が経済成長を停滞させる証拠はないし、戦後日本国民の幸福度は経済成長の割にはほとんど高まっていないという研究さえある。


90年代以降、失われた時代を経験した日本は、不安が高まるばかりである。自殺率の高さは言うに及ばず、非正規雇用や派遣の増加によって、生活保障のための社会保障は機能不全に陥っている。年金は崩壊しないまでも、生活保護につけが回っている状態である。これらは、高負担という言葉に惑わされてきた結果ではないだろうか。


「高福祉応分の負担」とは、高負担という言葉に惑わされないで、価値ある安心であれば社会として負担していこうという呼びかけである。


どんな困難を抱えても人として尊重されなければならないことを訴えてきた本会の活動として一貫していると思う。その実現のためには社会的な連帯が必要であるし、お金の問題についてももっと明らかにする必要があると思う。本会の調査報告書『認知症の介護世帯における費用負担』(2006年)では、本人や家族の負担の実態について、介護保険だけでなく、所得、年金も含め、生活保障の視点から明らかにした。


さらに、イギリスアルツハイマー病協会の報告書『認知症UK』(2007年)では、お金に換算すると、認知症の人一人当たり年間平均375万円の介護費用がかかっており、そのうち36%は家族などのインフォーマルケアであることを明らかにしている。その中には介護者が仕事を辞めたり、仕事時間を減らすことによる逸失所得も含まれており、逸失所得の総額は1,035億円、それによって185億円の税収を失っているという。このようなデータをもとに、同報告書は、認知症介護費用を誰が負担すべきかという課題を政府が率先して議論していく必要性を訴えている。


確かにお金だけの議論では、高負担の罠に陥ってしまう危険がある。しかし、本来の社会保障であれば、負担ではなく貢献の問題ではないだろうか。いやなことに対して負担するのではない。よりよくなるために貢献するのである。


何を改善したいのか、その目標達成のために、誰がどれだけ貢献していくかを話し合い合意していくのが民主主義だろう。単に、言葉のすり替えのように思われるかもしれないが、私としては「高福祉応分の貢献」がより真意に近いのではないかと思う。


2009年12月25日発行会報「ぽ~れぽ~れ」353号より

あなたも「家族の会」の仲間になりませんか?無料で資料をお送りします。