支部だよりにみる介護体験

認知症と向き合って…家族の思い


濱崎久夫(42歳)


母こと濱崎つや子は昭和2年生まれの82歳。認知症暦は約15年の大ベテラン。


この特別養護老人ホームで暮らすのはまだ2年という新入りです。その割に、母はここを自分の家と思ってはばからず、広大な敷地と建物が大のお気に入り。どうやら保険の外交員をしていた母がもっとも輝いていた時期を思い出させる広さと人のふれあいがあるようです。


■ 鬼の形相。一触即発…


3年前、「そんなさげすんだ目で私を見んといて」「私に死ねというんか」と叫んでいたころの母の面影は、今はまったくありません。おそらく、鬼の形相をしていたわたしも、今はすっかり孝行息子に見えることでしょう。でも、ほんとうは、一触即発の状態だったのです。「目が覚めたらポックリ逝っててくれ」そんなことを願う息子でした。「死にたきゃ、殺してやる」と母の首に手をかけたことさえあるのです。当時、ちょうど同じ境遇の人が母子で介護心中したという事件もあり、今度はわたしがやってしまうかもしれないと、押しつぶされそうな思いでした。


なにしろ、おたがいに睡眠不足と疲労で爆発寸前。尿意がなくても5分おきにトイレに向かう母。なんとか眠ってほしいと睡眠薬を処方すれば、逆に興奮して騒ぎ出す。目を離したすきに外出する。


探す。見つからない。帰ってきても同じドアが並ぶ集合住宅は、どこが自宅かわからない。よその家の呼び鈴を鳴らして迷惑をかける。どんどん悪化する母の行動でギブアップ寸前。


■ 入院、入所という選択肢…


いまから考えれば、私たち親子は孤立感を深めていたことが手に取るようにわかります。認知症は正体がみえない。いつの間にか母の体に忍び寄り、気づいた時にはかなり進んでいたのです。ふたたび訪れた専門病院の先生は、わたしたちの介護状況の変化と限界に気づき、入院という選択肢を与えてくれました。1年後には、隣接している今の特養に入ることができました。しかし、母の異変に気づいてやれなかった悔しさは残ります。


若いときは60代の母の体調を気遣う余裕はまだありませんでした。30代半ばに母の症状は少しずつ悪化してきたのです。医師によれば、当時、すでに発病してから10年は経過していたと推定されるとのこと。自分の人生のだいじな時期にと、母を恨んだこともありました。けれども、初めて見せた入院中の母の笑顔は、生涯忘れることができません。首に手をかけたわたしのことなどけろりと忘れ、天使のような笑顔を見せてくれたのです。


そればかりか、周囲に「わたしの息子」「あれ、息子」とうれしそうに紹介するにおよんで、わたしは「母といっしょに生きていこう」と決意したのです。いずれ、母はわたしを息子と認識しなくなるでしょう。でも、母は毎日を精一杯生きていくでしょう。そして、楽しく輝く光の中を生きてほしいと願っています。今は、失われた自分の30代の人生より、もっともっとだいじなものを母から教えてもらった気がします。


福井県支部(2009年8月号No.48より)

2009年10月25日発行会報「ぽ~れぽ~れ」351号より

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